刑事訴訟法の立法課題-焦眉の2大課題
取調の可視化の議論が喧しいですね。
こんなことが何年も話題になるくらい,わが国の刑事裁判は,国際的な人権保障のレベルから見て,大きく立ち後れております。
わが国では,民事法は現代化が課題となっているのですが,刑事裁判は,近代化が課題となっているのです。前者の民事法の改正は,フランスやドイツやフィンランドやイギリスとともに,現代という同時代を悩みながら歩めばよい問題ですが,後者は,欧米の人権レベルに追いつく,キャッチアップが必要な問題なのです。
わが国の刑事訴訟手続で近代化が図られるべきなのは,次の5つの課題です。
① 保釈制度の改革(検察官の訴えを否認すれば保釈されない状態を改めること。)
具体的には「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」があれば権利保釈されないという法律の文言(刑事訴訟法89条4号)を,「罪証を隠滅すると疑うに足りる具体的かつ相当な理由」があれば権利保釈されないという法律の文言に改めるという改革。
② 証拠制度の改革(捜査機関手持ち証拠の開示拡充と弁護人の証拠収集手段の拡充)
③ 勾留場所での接見・面談の自由の拡張
④ 不適正な採取方法による自白を証拠から排除するルールの適正化
具体的には,捜査機関による虚偽の説明(重要事項に関する不実の告知や,故意の不利益事実の不告知),断定的判断の提供,不当な威圧,被疑者の無知や不注意を誘発し,または無知や不注意に乗じて,それを利用して獲得された自白を,裁判の証拠とできないルールの確立。
⑤ 勾留中の被疑者の取調の可視化
これらは,いずれも立法課題として検討・実施されるべき事柄であり,現在の裁判所や検察庁の組織体制を見る限り,実務を担当する裁判官・検察官に任せておけば,判例の発展により,改善が果たされて行くという状態にはありません。立法による改革が必要なのです。
ところが,政府部内で立法課題として検討されているのは,⑤の「取調の可視化」問題だけです。なお,②のうち,いわゆる「証拠開示」の問題については,裁判員裁判というそれ自体憲法違反のおそれがある新しい制度にリンクする形で一部立法が実現しているのですが,裁判員裁判と抱き合わされた改革であり,証拠開示ルールが法制化されたもの(真の改革)とはいえません。普通の裁判も含めて裁判員裁判並みの証拠開示がルール化される必要があります。
①から④の課題は,仮に現在は政府部内で検討されていないとしても,在野法曹のガバメントである日弁連が取り組んでいるのであれば,まだ未来も展望できるというものですが,日弁連(刑事弁護センター)も,⑤の運動に終始するだけで,①から④の立法課題の検討に着手していないようです。
これはいけません。
ところで,裁判員裁判の制度というのは,性質上,刑事裁判の「現代化」の問題です。でも,「現代化」をやる前に「近代化」を済ませておかないと,新しい制度も,単に目新しいだけの制度となり,マスコミや関係者の熱がさめれば,砂上の楼閣となります(そういうものです)。本来は,刑事裁判現代化の課題で,直ちにやらねばならないことは,「刑事裁判例等の量刑情報のデータベース化,在野法曹への開示という制度の導入」なのです。これは改良の問題であり,政府と日弁連が共同すれば,直ちにできる制度です。裁判員裁判などという,「爆弾のようなもの」は,現場主義で抽出される本来の現代化の課題(それはもともと,いわば「トヨタのカンバン方式のように」現場から磨きあげられて上がってくる改善提案なのです。)には,なかったはずですが,司法改革の際に,鳴り物入りの道具として,一部の人たちにより,わが国に仕組まれてしまったものです。この結果,刑事裁判は,新たな難題を抱え込むことになったのですが,もう実施されてしまっている現在の裁判員裁判で,直ちに「カイゼン」する必要があるのは,裁判員として参加した市民が,評議に参加した感想を,より自由に話すことができるようにすること(「感想」表現の自由化立法と,過失による評議の秘密の提供を非犯罪化する罰則改正)です。
さて,上述の近代化の課題のうち,①の保釈制度の改革,④の自白証拠制度の改革の問題については,最近,極めて興味深い,お話しを,ある弁護士(元裁判官)から聞く機会を得ました。感動しました。これにより,これらの改革問題が,本当に焦眉の,すぐにやらねばならない改革の問題であることが,私の中で一層クリアになりました。
うろ覚えですが,記憶に残ったことを記しておきます。
★ 裁判官の良心の限界
裁判官の良心に限界を与えるものの一つに,外的要因があります。
それには,実務慣行が挙げられます。
一人一人の裁判官の良心ではどうにもならないものの一つです。
令状実務,保釈の実務において,権利保釈の除外事由であるいわゆる「罪証隠滅のおそれ」を拡張的に解釈する裁判実務があります。接見禁止の実務でも同様でしょう。
現在の裁判実務では罪証隠滅のおそれを,緩やかに,大幅にゆるめて解釈しています。被疑者が否認傾向にあろうものなら,実際には罪証隠滅工作などできないのに,権利保釈を認めず,勾留請求の段階においては,他の客観的証拠が十分にあっても,「罪障隠滅のおそれ」があることを勾留理由に挙げます。これが裁判官の実務姿勢です。
もう一つ,自白中心主義の実務があります。自白の獲得は,典型的な捜査手法です。自白の獲得をするうえで,被疑者の勾留は大事なその手法をなしています。「保釈」も捜査に協力する被疑者に対し,ご褒美として提供されるものという位置づけとなります。そうすると自白しない者にはご褒美はあげるべきでないということになります。裁判所の令状実務は,そうした捜査手法を容認しこれに協力しようとしています。これが「罪証隠滅のおそれ」を緩やかに解釈して勾留を許す原因となっているのです。公務執行妨害であれ覚せい剤事件であれ,とにかく否認事件では,保釈を許さない。
おる弁護士が,勾留の理由に関する刑訴法60条1号,2号,3号のお話しをしているときに,あるベテラン判事の言葉を引用して,こういう講義をしていた。そのベテラン判事がこんな話をされたという。刑訴法60条には,実際には4号というものがあるんです。「自白を取る必要があるとき」というやつです。裁判官は,黙示に4号を認定して,勾留を認めているんですよ,と。それは,「罪証隠滅のおそれ」の解釈について,自白に妥協している実務の話です。
裁判所全体が戦後の発足の当初から厳密に解釈して運用していれば客観的証拠中心の捜査手法になっていたはずです。当初から自白中心の捜査官に妥協するばかりで刑事訴訟を改善する役割を廃棄していたのです。
それは戦前の伝統から来ているものです。裁判所は司法省の一等下で,検事局に頭が上がらず,検事局を牽制する力を持てなかったひ弱な存在でありました。戦後の最高裁も基本的にはそれをひきついだのです。その戦後の発足の当初からの運用が,裁判官の令状実務のあり方をしばってしまったのです。「罪障隠滅のおそれ」を広く解釈する実務が定着することになったのです。
「罪証隠滅のおそれ」の解釈を,もしも広くしないものなら,裁判所内部で孤立させれ,人事上の処遇でも不利益に取り扱われます。そうして,金太郎飴のような実務慣行ができあがっていったのです。
現在では昔のような人事差別はなくなっておりますが,勾留却下・保釈許可のやたら多い裁判官ということになれば,転勤の頃合いとなる2月,3月に所長室に呼ばれ,○○くん,君の刑事事件の処理は弁護士さんには大変評判がいいようだね。この4月に,民事部に,一人お願いしたいところがあって,君のその実力をぜひ民事部で,期待に応えていただくわけにはいかないだろうかと持ちかけられ,体よく,刑事部から放逐される。こういった事態が裁判官の目には見えているのです。このような「柔らかい要請」に応えない者なら,協調性が足りないなどという事由により,人事上の差別を受けることになるでしょう。それは,官僚裁判官には耐えられないことなのです。
こうして,こうした実務慣行は,広い意味で人事政策とつながり,良心を外側から制約することになるのです。
また,取調の可視化がいわれる背景には,過酷な取調べが一向にになくならないということがあります。これは自白の任意性判断に関するチェックのはずです。ところが裁判所が自白に任意性なしとして証拠を却下することはまずしてこなかったことも,同じ背景があります。
裁判官は伝統的な実務慣行から逸脱しにくい状況におかれているのです。
裁判官の良心に限界を与えるもう一つの要因は内側から発生してくるのです。
裁判官自らの意識の変容。膨大な事件処理の中で,自らが守るべき正義や治安や人権といった意識も変容を遂げてきます。それは在野法曹からみると意識の後退堕落であります。
まず捜査に対する感覚が変容してきます。捜査官側の意識に影響を受けるのです。自白の有用性・重要性が,日々の事件を通じて,裁判官に意識改革を迫ってきます。
自白があってこそ訴追できた暴力,自白があってこそ短時間で事件処理ができた事例,それらの経験を積み重ねることによって,自白獲得手段としての勾留に寛容となっていきます。そうして,裁判官は,「素直な自白」に好意を持つようになり,「かたくなな否認」には嫌悪感を抱くようになるのです。これは裁判官の良心に限界を与える内なる要因です。
裁判官は,多数の事件を通じて,被害者の意識もよくわかるようになります。無念の気持ちに配慮する気持ちがでてきます。むごい事件,社会の治安といった面の意識にも変化が生じるようになります。以上が裁判官の良心に影響を及ぼす事柄です。
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