文化について考えた
先日,1泊2日で愛媛に事務所旅行に行ってきました。愛媛と言えば道後,道後温泉本館やその温泉街はもちろん,今治のタオル美術館に行ったり,道中では香川で本場の讃岐うどんを食べたり,久しぶりの四国を満喫しました。
その時のことは,いずれ他の方々が書いて下さると思うので,そちらにお譲りするとして,今回は道中の車の中で音楽を聴いていたときに思ったことについての話です。
私は,洋楽やクラシックも聴かないわけではありませんが,どちらかといえばJポップを聴いてきた人間で,サザンオールスターズやTUBEなどがお気に入りです。もちろん,旅行では他の人も車に乗りますから,色々なアーティストの曲を適当にシャッフルして流していたのですが,聞きながら考えていたのは,自分の好みというものが大体学生時代に形成されている,ということでした。学生時代は色々な音楽を聴くだけの時間や心のゆとりがあったからでしょうか。そう言えば,ラジオの音楽番組でも,リクエストと言えば自分が学生時代のエピソードを添えてリクエストする人が多い気がします。
「最近の音楽は分からない」などといった話をする人がいますが,こういう台詞を聞く度に「音楽にレベル付けはできるのか」ということをふと考えます。ここでいう「レベル」とは自分の嗜好の問題に過ぎないのではないか,音楽は格付けできるシロモノなのか。
文化にも,洋の東西,大衆的なものから高尚なものまで幅があり,レベルの問題として比較対照できる共通の土俵があるのかという気もしますし,先の見えたコード配置で音符を羅列しただけの軽い曲と言わざるを得ないような作品があることも否定しがたいような気もします。
しかし,はっきり言えることは,文化は発展したり衰退したりするもので,お金なしに成り立っていかないということです。創造とはお金がかかるものであり,受容する側がこれはと思うものに対して対価を払い,批評や意見を発信していくことで,文化が成り立っていきます。そして,受け手が文化を評価していくための「ものを見る目」を養うためには,これまたお金が必要となります。
今,橋下徹大阪市長は,大阪フィルハーモニー交響楽団への市の助成金をカットしようとしています。楽団に出す金があればカジノでも作った方が儲かるということなのかも知れません。しかし,文化は人格的な営みとして生活を豊かにしてくれるもので,これが衰退すれば味気ない社会になってしまうように思います。市長は,演奏などを聴いた上で判断しているようですが,文化を評価するだけの素養を備えているのか,問われているところだと思います。
取り留めもない話ですが,そんなことを考えていました