堤未果さんの「経済的徴兵制」と弁護士人口激増政策

 5月3日,ジャーナリストの堤未果さんを講師に招き,5・3憲法を守るはりま集会が開催されました。講師のお話を会場で1時間15分あまりじっくりと聞きました。
 そして,司法改革,弁護士人口激増路線,新自由主義について,再び考えています。
 堤未果さんは,講演でこういう内容のお話しをしていました。


 アメリカは言う。わが国は,徴兵制を採らないで軍隊の制度を維持することに成功した。
 徴兵制なんか採る必要はない。志願兵で成り立つ。みんな「自由な意思」で軍隊に入ってくる。
 貧しい家庭の子どもたちが望んで軍隊に入隊してくる。
 <もっと良い人生が手に出来る>
という軍の約束を信じた子どもが軍隊に入る。
  政府は,「作られた貧しさ」「生み出された貧しさ」,それによって子どもたちの「自由な意思」を作り出す。
 市場の力で,経済の力で,軍に入る「自由な意思」を作り出す。
 子どもたちは,「大学に学ぶ学費を出してもらえる。」「除隊後,一つ上の生活が出来る。」「軍の医療が受けられる。」そんな約束をされて入ってくる。
 もし,日本のように,憲法が軍隊を禁じている国の国民でも,日本の社会が,アメリカのような格差社会となれば,「もっといい生活が出来ます。」ということになれば,それを選ぶ人達で戦争が出来るだろう。
 格差は政府の政策によって生み出すことができる。
 学生の情報が軍に提供される。
 そしてスカウトマンから子どもたちに携帯電話がかかる。
 「今のようなことを続けていても,君は社会に出れば,せいぜい派遣社員でしょう。マクドナルドのアルバイトでしょう。でも軍に入れば,大学の学費を支払ってもらえる。給料がもらえる。職業訓練が受けられる。」
 そして戦争で人を殺すか自分が殺されるような目に遭う。
 戦地から帰ってきても,後ろに立たれると殺そうとしてしまう。
 そして,社会に適応できなくなってしまう。
 国家によって見捨てられる。
 そうして貧しさは再生産される。

 アメリカの医療。
 今アメリカの医療現場で何が起きているか。
 民間の保険料を払える人の保険。その保険金の不払い。
 医療を絶対に市場に渡してはならない。
 日本の国民皆保険制度を市場に手渡してはならない。
 アメリカで起きていることは,数年後に日本で起きる。
 アメリカの医薬品のメーカーは,日本の市場を虎視眈々と狙っている。
 一度市場に渡してしまったら,おしまいである。


 この講演を聴いて思った。
 現在,弁護士人口激増路線に賛成するのは,法科大学院協会と,新聞論説委員の一部と,東京弁護士会内の司法改革推進派の人達である。彼らを「司法改革」推進勢力と言おう。
 「司法改革」推進勢力は,いうだろう。
 皆さん,弁護士人口を急激に増やして,良かったですね。
 弁護士会は,被疑者国選がなりたっていくのか,心配していました。ところが,今や,会員に国選弁護活動を倫理で義務づけるようなことをする必要がなくなりましたね。みんな「自由な意思」で国選弁護をするようになりました。今や東京や大阪では,皆さん競うように国選弁護の仕事を取っていますよ。
 弁護士会は,過疎地に弁護士がいないことを心配していました。
 ところが今や,過疎地域と言われる地域の弁護士会でも弁護士人口が倍増し,よろこんでもらっていますよ。
 これらは,弁護士人口の飛躍的増大という司法改革のよき果実ですね。……。
 「国選弁護は弁護士の崇高な任務」であるにも関わらず,被疑者弁護を担うだけの弁護士は揃っていなかっただろう。少なくとも苦労が予想されただろう。弁護士人口をこうして激増させたら,どうだい。若い人達が自分で国選をやるようになった…。

     <生み出された格差>
     それによって「自由な意思」を作り出す。
     これが市場主義。
 市場主義による改革。
 アメリカのやり方と,その輸入。
 そこにアメリカの商業ベースの圧力もある。それに「人権派」「正義派」の仮面を被った学者・マスコミ・弁護士が論客としてキャンペーンを張るの図。
 そう。日本の弁護士にも,弁護士人口激増政策によって,格差と貧しさが生み出された。
 弁護士登録をし,運よく就職できてもイソ弁の給料は以前と比べて何割かに下がり,そのため副業として国選弁護に精を出す若手弁護士が増えた。弁護士会のあてがった仕事に「群がる」,多くの新しい弁護士が生み出された。
 <作られた貧しさ・格差>。
 これに対面すれば,<もっとましな収入を手に出来る><ワンランク上にあがれる>という勧誘の力,ささやきの力は,<法曹の理想>などの理念の力を簡単に破ってしまうだろう。
 今,弁護士会は,例えば「被疑者国選弁護活動」といった,それ自体正しいことを熱心に推進している。
 しかし,もしそれが担い手である弁護士会の会員1人1人が,それが「正義である,義務である」(一つ一つの刑事弁護を真面目に地道にこなすことが,それが如何にペイしない業務であろうとも,日頃の業務を離れて,弁護士が弁護士であるための基本としてとても重要な事柄である,等)として選び取ったものではなく,主として,経済的な必要性から,ビジネスとして選択されたものなのであれば,それは主として,ビジネスに求められる仕事以上のものを生み出さない。つまり,構造的にもそれ以上のものを生み出さない。
 「司法改革」推進派が成果として強調する,被疑者国選弁護を担うようになった弁護士の数の増大や,過疎地域で登録する弁護士の増大や,法テラス・ひまわり基金に登録する弁護士の数の増大は,ボランタリーな精神が花開いた結果とはいえない。
 もしそうなら,合格者500人時代にも花開いたはずである。客観的にはそうではない。弁護士人口を今までの市場からはあぶれさせて,経済的にあぶれることを市場の力を借りて強制し,そのことにより,あぶれるかもしれない危機意識を持った人にその選択をさせた結果であるといえる。
 「自由」は実際には見せかけに過ぎない。本当は作られた市場による「強制」である。これが新自由主義の政策でなくてなんであろうか。
 この政策は,競争を作り出し,弁護士層の中に格差と競争をあえて持ち込み,その市場の力によって,一定の結果を引き出そうという思想を持った人達によって,意図的に企図され,その結果として産み落とされたものであるといえる。

 「司法改革」推進派(ここでは,司法試験合格者年間3000人(2000人でもいい)といった弁護士激増の政策が今でも正しいと公言する方を指す。)の学者,マスコミ,弁護士の方と直接お会いする機会があれば,是非,尋ねたい。
 果たして,こんなことをしてよかったのか。
 こんな風な,「冷たい」「ひどい」やり方で,当座「市民」が一時「便益」を受けたとして,そのような便益が長続きすると思うのか。
 「冷たい」やり方,「ひどい」やり方は,長い目で見たら「冷たい」結果,「ひどい」結果しかもたらさない。テロにはテロ。暴力には暴力。経済的強制には,経済的強制が返ってくる。そうではないのか。
 誰だ,こんなやり方を策謀したのは。誰だ,いまでもこんなやり方に「万歳!」の声を上げているのは。


 また聞こえてくる。そしてまた際限のない論争が始まる。
 新自由主義の議論というのは「分かりやすく」「のっぺりとして」「それでいて強力」だ。

α 「よいことじゃないか!」との野次声あり。

 被疑者国選弁護制度ができて,若手弁護士が中心になって制度を支えている。「群がる」なんて失礼な言い方をするものではない。
 客観的にみて,刑事弁護活動にいそしむ弁護士が数として増えたのは素晴らしい。弁護士人口が増えて,弁護士会の会費収入も潤沢になった。弁護士会の基盤は強化されている。一体何が悪いというのか。

β そのとおり。でもちょっと待って下さい。

 今まで自然にしていたら起訴後国選を担う力量しかなかった。
 弁護士会が求めてきた被疑者国選制度が導入されることに決まって,地方では,会務・公益活動として倫理的な意味を共有させて,被疑者国選を担うようにした。
 でも東京や大阪では,若手が国選を志願して採っていくので,地方のようなことをせずに済んでいる。東京や大阪の国選を採る弁護士は,「仕事を採るため」そこに集まっているのであって,「理念や志」で集まってきたのではないですよね。それは認めましょうよ。
 地方では今でも理念や志で支えている部分が主であり,それが「古き良き弁護士会」のモデルです。
 そういう弁護士会・弁護士界の,道徳意識・倫理・仕事スタイルの「力」によるものではなく,格差を生み出して,格差から抜け出したいと考える人達に「ないよりまし」の選択をさせているのが東京・大阪で起きていることですよね。これって,本質的に違いますよね。
 後者の地域では,地方の弁護士の誇りやプライドはズタズタにされてしまいますよね。
 自分がやらなくても,その人達がする。
 その人達がするなら,自分がしなくていい。
 そういうように「弁護士会が言う。」。
 自分の職業的なプライドを弁護士会が守ってくれないのですから。
 そして,そのようなビジネス本意の動機から刑事弁護に取り組まれた人達は,その仕事を得なくても食べられるようになれば,つまり,「ないよりまし」の状態から抜け出せれば,やめてしまうのではないでしょうか。
 そうでなく刑事弁護に目覚める人もいるでしょうが,基本的にはそうなるのではないでしょうか。
 そういうところでは,ごく普通の弁護士が,弁護士である以上は,職業倫理として刑事弁護を担うという,そういう文化は失われているわけです。
 そこでは,経済の論理が支配しているのですから,「裁判所の求める仕事」「法テラスの求める仕事」以上の仕事をすることは不効率だからまずしないのでは。もちろん真面目にやる人もいるでしょう。採算を度外視してやる人も中にはいるでしょう。しかし,それは少数にとどまるでしょう。
 そうなると,刑事裁判の構造は,いままでとなんら,変わらず,さらに,これまでと同様の刑事裁判の正当性は,被疑者弁護によって補強され,安定する。そうなる危険性が濃厚なのでは?


α 「裁判所の求める仕事」「法テラスの求める仕事」だけでもプラスでしょう。

 公のために奉仕する活動を弁護士会ができているということになる。そういう意味はある。そもそも,刑事裁判の正当性が補強され,安定することはそれ自体悪いことではない。市場の論理,経済の論理のまっただ中に若い弁護士が投げ出されて,そこから,格差の底辺から上り詰めていく弁護士が,それではいけないと考えて,弁護士会を改革する可能性も否定できない。
 多くの資格労働者も自由経済の中で仕事をしているのだから,弁護士もそのような中から荒波を乗り越えて雑草のように新しい分野を開拓するべきだ。
 そもそも,市場を活用する方法によって,市民に対する司法サービスの質及び量が向上したかどうかがもっとも重要だ。
 弁護士人口を増やした結果,弁護士が,市民と日常的に触れあうようになって,敷居が低くなって,市民目線で行動するようになって,場合によってそのような目線から裁判を起こすようになることは今でも期待できる。

β …。

 経済的基盤を確保できない,絶えず競争に晒されているマスとしての弁護士層が,やがて企業としてファームを形成し,企業利益を追求する通常の企業主体としてリーガルサービスを日本の国全体に提供するのが日本の法的サービス市場の基本となった場合,上記のような「市民目線で行動する弁護士」が残っていたとしても,それはゴミのような小さな存在になる可能性があります。
 弁護士は,いくら数が増えても,資格として強力でありそれが層として,「利益を揚げる」ことを基本に置いた企業経営に邁進するとき,今単位弁護士会で残っている人権活動を担う弁護士がどこまで影響力を保っていられるのか。そのとき,弁護士会はどのような存在となっているのか。そこに不安はだれでももっているはずです。
 脳天気なことをいつまで仰っているのですか。弁護士のサービスを市場原理に投げ出すことは,弁護士のサービスを統制困難で,利益本位な,必ずしも持続可能ではない,気まぐれを本質とする市場の論理に委ねることになります。
 これで市民生活の安心・安全が守れる保証はどこにあるのですか。
 その安全装置がどこにありどこで機能しているのですか。どこにもないではないですか。


α そこが弁護士会だよ。

 東京の弁護士会は,今でも派閥が握っているし,弁護士会が統制することによって弁護士による市民生活への危害は実効的に防止できるはずだ。
 大体,弁護士が市民生活に危害を与えるだなんて,そんな恐ろしいことを同業者に向かってよくいえるね。
 オオカミ少年といわれないか。
 いずれにせよ,そういう後ろ向きのものの考え方では,君たち自身出世しないよ。もっと弁護士自身が営業努力をして,市民の中に入っていくようにしなくちゃ。その過渡期なんだよ。現在は…。


 こうして,新自由主義の議論というのは「分かりやすく」「のっぺりとして」「それでいて強力」です。
 しかし,どのように分かりやすい議論をされても,「冷たい」やり方,「ひどい」やり方は,長い目で見たら「冷たい」結果,「ひどい」結果しかもたらさないと思います。
 本来,法曹養成(職人職としての後輩の育成)という,1人1人を丁寧に大事にしてやるべきことがらを,今のようにあまりにも安直なやり方でやれば,「ひどい」結果しかもたらさないと思います。
 これは,「司法改革」推進派の皆さんが,上記のような論理(私が想像している論理に過ぎませんが,そんな感じだと思います。)を持って,今の段階で,どのような言質を弄しようと,時間が経てば必ず明るみとなる真実だと思うのです。


 ここで,弁護士人口急増路線と法科大学院制度に関する私見を述べておきましょう。

  1.  司法試験合格者は,現状の2000人から,少なくとも1500人に,直ちに数を減らすべきです。(兵庫県弁護士会は段階的に1000人に減らせと決議しています。これに私も賛成です。)
     そうしないと,
     ① 合格者の相当数が就職できません。
     これでは,大学の上の大学院に沢山の資金と時間を投じて来ても,一般の大学生と変わらないあるいはそれ以上に悲惨な(借金の抱えた)生活しか待っていない可能性があるわけですから,優秀な人材が法曹界に集まらなくなります。
     また,司法試験合格者が培ってきた能力というのは,そのまま実務に就かないと,1年程度で陳腐化してしまい,再度実務で力を発揮するためには,改めての集団的養成が必要となるのです。これでは,その方の人生の無駄遣いであり,国家的な無駄遣いでもあります。
     そして,②こうした開業・就職困難な弁護士業界の実体は,裁判官,検察官といったキャリアの皆さんに悪い影響を与えます。
     すなわち,彼らこそ,憲法と法律と良心にのみ従って,独立して法を適用すべき人達な訳ですが,彼らが辞めれば待っている弁護士の世界がこのようなていたらくであれば,彼らが,職を賭して決断していくその独立・自由の基盤がなくなってしまいます。
      同じことは,弁護士1人1人が依頼者から依頼を受け,仕事を選び,社会的活動を行うことに対する悪い影響としても現れます。
     弁護士の経済的基盤を堀り崩せば,その市民的活動を行う基盤が失われます。
     弁護士は,これまで,自由に考え,自由に発言し,自由に活動し,市民の中に入って市民を鼓舞する役割を果たしてきました。
     少なくとも,20人も弁護士がいれば,そのうち2人や3人はまともな上記のような個性派の弁護士がいました。
     その市民的基盤を堀り崩せば,弁護士自治は崩壊してしまいます。
     弁護士自治が崩壊すれば,弁護士が法務省の統制を受けるようになってしまいます。そうすると,裁判所も法務省の統制を受けるようになったも同然の事態が生み出され,日本の司法が崩壊することになるでしょう。早送りで言えば。
  2.  司法修習は,現行の1年から,1年半に延長し,前期修習を復活させるべきです。
     法科大学院は,最高裁の司法研修所がかつて行ってきた「前期修習」なみの能力を法科大学院生に身につけさせることになっていたのですが,それは皆目成功していないのです。
     前期修習は復活させ,前期の3ヶ月間は,司法修習生(司法試験合格者)は,司法研修所で基本的かつ統一的な実務的教育を受けてくるべきです。
     そのためには,司法修習生の数は,予算的にも,教育できる受け皿の限度という意味でも,年間1500人が限界です。1000人くらいが適正規模だといえるでしょう。
  3.  法科大学院卒業者も予備試験合格者も,同じ同一の司法試験を受けていますが,法科大学院卒業者と予備試験合格者とが,合格率が均衡するように,予備試験合格者枠を調整すべきです。 
     これに伴い,法科大学院卒業者の受験回数制限を撤廃するべきです。
     法科大学院卒業者であろうと,予備試験合格者の試験であろうと,法律家として身につけておかねばならない能力は同一です。現在の法科大学院生のみ優遇されるというのは,全く道理に合いません。
     私たち先輩法曹とその顧客や社会が新たな法曹希望者に求めているのは,「法曹として求められる最低限度の均質で高品質な基礎的能力を持った法曹」です。そのクオリティがあって,加えて社会的な種々のキャリアや個性が上積みされるならそれに超したことはない。しかし,最低限度の均質で高品質な基礎的能力もないのに,「法曹」のバッジ・資格を与えることを,私たち先輩法曹も,その顧客や周囲の社会も,新たな法曹希望者に求めていません。ましてや,法科大学院が潰れるくらいなら,品質や基礎的能力が多少落ちても,法科大学院生を法曹にして構わないと考える国民は,法科大学院関係者以外はだれもいないでしょう。
     最低限度の均質で高品質な基礎的能力があるかどうかは,統一された共通の,試験で試されるべき事柄です。法科大学院生に下駄を履かせるため,予備試験合格者人数を絞り込む必要はどこにもありません。
     また,法科大学院を卒業して何回受験したかで法曹の途を立つことのできる権利などだれにもありません。先輩法曹も国民も,その方が最低限度の均質で高品質な基礎的能力を持った法曹であると認められれば,何歳でも,過去に何度試験に失敗した方であろうと,受け入れるでしょう。
  4.  法科大学院の試みで生まれた実務家と学者との連携・交流は,維持・発展されるべきです。 
     私は,「法科大学院の実験」が全く無意味であったと評価しているわけではありません。そんなことは全然思っていません。
     少なくとも学界では実務を意識した抜本的な改革が行われたと,私も,多くの実務家と同様に思っていて,その点は高く評価しています。
     他方,残念ながら,学者のこの間の法科大学院を基盤にした研究・発表の刺激を受けて実務が飛躍的に発展してきたという経過は見られません。大学法学部の世界が改革されたおかげで,実務はその大学法学部改革の福利を享受し,分かりやすく,さらに実務を意識した教科書や論文が次々に生み出されるようになったこと,大学法学部の学者の先生方が学生や実務家や社会との距離を確実に縮めたとは感じており,それは学生にとっても,実務家にとってもよかったと心から実感していますが,それ以上のものではありません。
     私たちの実務が改革される必要性は常にあると思っていますが,それは法科大学院の一連の教育・研究運動よって改革されていくというようなものではなく,こうした学者の新しい動きの影響を受け,高められつつ,しかしそれ以上に,「国民のご批判を仰ぎながら,もう少しましな実務をこつこつと」,ということになるのでしょう。
     法科大学院の行く末は,大学人が,大学の自治の観点から,自分たちで決めるしかないと思います。
     私たち法曹実務家は,その中で,フィクションを見抜くこと位はできます。(大学というのは権威とブランドの殻の中で生活していますのでね。そのパンフレットに掲げた権威とブランドが本物かは,私たちには「分かりますよ,もちろん。」ということです。)
     本当の大学人によってしか,本当の法学部は再生しないでしょう。
     そのフォーラムを弁護士自治を担おうとする私たちと共に絆を培って,一緒に形成し・育てていこうとしない,現状の自分たちの保身だけに汲々とする法学部と法科大学院は「殻が破れ」て,「むき身」になってもそれは仕方がないことだと思います。
     いま,「法科大学院協会」が私たち弁護士会に対して(地方の単位弁護士会からわき上がる実感のこもった声に対して)行っているやり方は,そういう,「冷たい」「味も素っ気もない」やり方なのですから。
     でも,そうならないでしょう。そうなったら,大学における学問の自由が終わっている訳で,そんなことにはならない。私は,心ある法学部と法科大学院の大学人の中から,声が出て,運動が巻き起こることを信じています。
     そのとき,地方の弁護士会は必ずそうした大学人の味方です。


<2011年5月5日 平田元秀 wrote>
<2011年5月9日 平田元秀 更新>
<2013年4月17日 平田元秀 更新>