「戦後80年に寄せて」石破首相の所感
石破首相が、2025年10月10日、戦後80年の首相所感を発表しました。
違和感はありません。
彼の国連演説(9月23日)とともに、私たちが、この前の戦争を遂行した国の市民として、考え行動していくときに基礎とするべき点の多い歴史認識(やや学究論説的ではあるものの、安定していて、一般的な知見に照らし偏りが感じられない歴史認識-小中高校生に話して聞かせることのできる歴史認識-、そして、特筆すべきは、斎藤隆夫の反軍演説による除名問題を引用して行われた、当時の議会の果たした役割に関する歴史認識)を、石破さんが、戦後80年を迎えた日本の総理大臣として、身をもって、国内及び世界に向けて表明してくれたことを、率直に感謝したいと思います。
石破さん、ありがとうございます。立場は違えど、心から敬意を表します。
以下、引用します。(Deeplで英語、韓国語、中国語(簡体字)翻訳もつけました。)
原文
(内閣総理大臣所感)
戦後80年に寄せて
https://www.kantei.go.jp/jp/content/20251010shokan.pdf
(はじめに)
先の大戦の終結から、80年が経ちました。
この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。
私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。
第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。
戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。
(大日本帝国憲法の問題点)
まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。
大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。
第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。
従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。
(政府の問題)
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。
政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。
しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内闇は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明微声明(こくたいめいちょうせいめい)を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
(議会の問題)
本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます
その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。
議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれら国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。
(メディアの問題)
もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。
1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。
1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。
(情報収集・分析の問題)
当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
(今日への教訓)
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。
さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たなければなりません。
自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対して、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。
政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒すには、大決心をもって国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞(げんじ)は決して容認できません。
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭な民主主義が何よりも大切です。
ウィンストン・チャーチルが喝破(かっぱ)したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。
だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。
同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。
斉藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。
翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。
どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は拓けません。歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。
戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。
私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、能う限りの努力をしてまいります。
令和7年10月10日
内閣総理大臣
石破茂
英訳
Prime Minister’s Statement “On the 80th Anniversary of the End of the War”
(Reflections by the Prime Minister)
(Introduction)
Eighty years have passed since the end of the last great war.
Throughout these eighty years, Japan has consistently walked the path of a peaceful nation, dedicating its efforts to the peace and prosperity of the world. The peace and prosperity Japan enjoys today were built upon the precious lives and history of suffering endured by all those involved, starting with the war dead.
Through my visit to Iwo Jima in March, my visit to the Philippine War Memorial in Calirya, Philippines in April, my attendance at the Okinawa Memorial Service for All War Dead and visit to the Himeyuri Peace Memorial Museum in June, and my visits to Hiroshima and Nagasaki in August, Nagasaki, and the National Memorial Service for the War Dead on the anniversary of the war’s end, I pledged to once again deeply engrave in my heart the reflection and lessons of the previous war.
Prime Ministerial statements have been issued at the 50th, 60th, and 70th anniversaries since the war’s end. I have inherited the stance of successive cabinets regarding historical recognition.
The past three statements have not extensively addressed why that war could not be avoided. While the 70th anniversary statement includes the passage: “Japan attempted to resolve diplomatic and economic deadlocks through the use of force. The domestic political system failed to act as a check,” it does not elaborate further.
Why did the domestic political system fail to act as a check?
Following World War I, as the world entered an era of total war, predictions from institutions established before the war—such as the “Total War Research Institute” set up by the Cabinet and the so-called “Akimaru Agency” established by the Army Ministry—indicated defeat was inevitable. Many experts also sensed the immense difficulty of waging the war.
Why, then, did the leadership of the government and the military, while recognizing this, fail to make the decision to avoid war? Why did they instead plunge headlong into a reckless war, resulting in the sacrifice of countless innocent lives both at home and abroad? Amidst warnings like former Prime Minister Mitsumasa Yonai’s caution to “avoid a slow decline into poverty and be careful not to plunge into sudden ruin,” why was a major policy shift impossible?
At this 80th anniversary since the war’s end, I wish to reflect on this together with the people of Japan.
(Problems with the Constitution of the Empire of Japan)
First, institutional problems of the time must be addressed. Pre-war Japan lacked a mechanism to properly integrate politics and the military.
Under the Constitution of the Empire of Japan, the authority to command the armed forces—the command authority—was considered independent. The principle of “civilian control,” which requires that in the relationship between politics and the military, politics, meaning civilians, must always hold the upper hand, did not exist institutionally.
The authority of the Prime Minister was also limited. Under the Imperial Constitution, all ministers of state, including the Prime Minister, were considered equals. While the Prime Minister was designated as the head of the cabinet, the constitutional system did not grant him the command authority necessary to effectively lead the cabinet.
Nevertheless, until around the time of the Russo-Japanese War, the Genrō (elder statesmen) played a role in integrating diplomacy, military affairs, and finance. These Genrō, who had backgrounds as samurai engaged in military affairs, understood the military well and were able to control it. To borrow the words of Maruyama Masao, the “mediation by super-constitutional entities such as the Genrō and senior ministers” played a crucial role in unifying the national will.
After the Genro gradually passed away and this informal mechanism declined, political parties attempted to integrate politics and the military under Taisho Democracy.
Amidst the great upheavals brought by World War I, Japan became one of the main proponents of international cooperation and secured a permanent seat on the Council of the League of Nations. Government policy in the 1920s, as exemplified by the Shidehara Diplomacy, restrained imperialist expansion.
During the 1920s, public opinion was critical of the military, and political parties advocated for large-scale military reductions. Military officers felt marginalized, and this resentment is considered one factor behind the rise of the military during the Showa period.
Traditionally, command authority was limited to operational directives concerning military operations. Matters related to military administration, such as budgets and organizational structure, were interpreted and implemented as matters requiring the assistance of the Minister of State, a member of the Cabinet. The absence of civilian control as an institutional problem was, in a sense, covered by the Genro (elder statesmen) and later by the political parties through operational practice.
(Government Issues)
However, the meaning of command authority gradually underwent an expansive interpretation. The independence of command authority came to be used by the military as a means to exclude government and parliamentary involvement and control over the military’s overall policies and budget.
During the era of party cabinets, political parties engaged in a battle of scandal revelations to gain power, causing them to lose the public’s trust. In 1930, the opposition Constitutional Seiyūkai party, seeking to destabilize the Constitutional Minseito cabinet, allied with elements within the Navy. They fiercely attacked the government, claiming that the ratification of the London Naval Treaty constituted an infringement of command authority. The government barely managed to ratify the Treaty.
However, in 1935, the Constitutional Liberal Party criticized constitutional scholar and House of Peers member Tatsukichi Minobe’s theory that the Emperor was an organ of the state, using it as ammunition to attack the government. This escalated into a political issue involving the military. Prime Minister Keisuke Okada attempted to distance himself politically from the issue, stating that academic debates “must be left to the scholars.” Ultimately, however, he yielded to the military’s demands. He issued the Kokutai Meisei Seimei (Statement Clarifying the National Constitution) twice, rejecting the previously accepted doctrine of the Emperor as an organ of the state. Minobe’s writings were banned.
In this manner, the government gradually lost control over the military.
(The Problem of Parliament)
Parliament, which should have exercised control over the military, also lost its function.
The most prominent example was the expulsion of Representative Takao Saito from the House of Representatives. During the plenary session of the House of Representatives on February 2, 1940, Representative Saito criticized the war’s descent into a quagmire and severely questioned the government regarding the war’s objectives. This became known as the anti-military speech. The Army reacted fiercely, claiming the speech insulted the military, and demanded Saito’s resignation. Many members of the House supported this demand, and Saito was expelled by an overwhelming majority of 296 votes in favor and 7 against. This was a rare instance of a member attempting to fulfill his role within the Diet, yet even today, two-thirds of the minutes from that session remain redacted.
Even in the crucial budget deliberations, which served as the Diet’s primary means of controlling the military, it is difficult to say that the Diet at that time was fulfilling any meaningful check on the military. After 1937, a Special Account for Extraordinary Military Expenses was established. From 1942 to 1945, nearly all military expenditures were recorded in this special account. During the deliberations on this special account, the budget documents contained no breakdown of expenditures. Both the House of Representatives and the House of Peers conducted their deliberations primarily in secret sessions, with extremely limited time allocated. These proceedings scarcely deserved the name of deliberation.
Even as the war situation deteriorated and finances became strained, the Army and Navy fiercely competed for budget allocations, staking their organizational interests and pride.
Furthermore, it must not be forgotten that during the fifteen years from the late Taisho period to the early Showa period, numerous politicians, including three sitting prime ministers, were assassinated by ultranationalists and young officers. Those assassinated were all politicians who emphasized international cooperation and sought to control the military through politics.
Needless to say, these incidents, including the May 15 Incident and the February 26 Incident, significantly hindered the environment where civilians, including parliamentarians and government officials, could freely discuss and act on military policy and budgets thereafter.
(The Media Problem)
Another issue that must not be overlooked is the media problem.
In the 1920s, the media was critical of Japan’s external expansion. During his time as a journalist, Tan’yama Ishibashi argued that Japan should abandon its colonies. However, around the time of the Manchurian Incident, the media’s stance shifted to actively supporting the war. This was because war reporting “sold well,” and newspapers significantly increased their circulation.
The 1929 Great Depression in the United States severely damaged Western economies. As these nations adopted high tariff policies under the guise of protecting their domestic economies, Japanese exports suffered a major blow.
Against this backdrop of severe depression, nationalism surged. In Germany, the Nazis rose to power; in Italy, the Fascist Party gained prominence. Among major nations, only the Soviet Union appeared to be developing. In intellectual circles, the view spread that the era of liberalism, democracy, and capitalism had ended, that the era of the US and Britain was over. This created fertile ground for accepting totalitarianism and National Socialism.
Amidst this climate, elements of the Kwantung Army instigated the Manchurian Incident, seizing territory several times larger than Japan’s mainland in just about a year and a half. Newspapers reported this extensively; many citizens became captivated by it, further heightening nationalism.
Regarding Japanese diplomacy, while some sharp criticism existed—such as Sakuzō Yoshino’s condemnation of the military’s actions during the Manchurian Incident and Reiji Kiyosawa’s harsh criticism of Yōsuke Matsuoka’s withdrawal from the League of Nations—from around autumn 1937, strengthened speech controls silenced criticism of policy. Only narratives actively supporting war were conveyed to the public.
(Problems in Information Gathering and Analysis)
It is necessary to reexamine whether Japan, including its government, accurately understood the international situation at the time. For example, while negotiating a military alliance with Germany targeting the Soviet Union, the German-Soviet Non-Aggression Pact was signed in August 1939. The then-Hiranuma Kiichirō Cabinet resigned en masse, stating that “a complex and bizarre new situation has arisen in the European landscape.” Questions remain: Was sufficient information on the international and military situation being gathered? Was the information obtained being correctly analyzed? Was it being appropriately shared?
(Lessons for Today)
In postwar Japan, civilian control has been institutionalized. The Constitution of Japan stipulates that the Prime Minister and other Ministers of State must be civilians. Furthermore, under the Self-Defense Forces Act, the Self-Defense Forces are placed under the command of the Prime Minister.
The Constitution clearly states that the Prime Minister is the head of the Cabinet and that the Cabinet bears collective responsibility to the Diet, institutionally ensuring the unity of the Cabinet.
Furthermore, the National Security Council was established to strengthen the comprehensive coordination of foreign affairs and security. The government’s framework for intelligence gathering and analysis has also been improved. These systems require further development in line with the times.
These institutional arrangements were implemented based on the bitter lessons of the past, when the absence of a mechanism to appropriately integrate politics and the military led to the military running amok under the guise of independent command authority. On the other hand, these are merely systems; without proper implementation, they hold no meaning.
The political side must possess sufficient capability and insight to effectively utilize the Self-Defense Forces. Constant effort is required to correctly understand and appropriately implement the current system of civilian control. Politicians must possess the pride and sense of responsibility to resist irresponsible populism and not be swayed by the prevailing tide.
The Self-Defense Forces are required to actively explain and offer opinions to the political sphere from their position as experts regarding the international military situation surrounding our nation, equipment, and unit operations.
Politics bears the responsibility to overcome organizational silos and achieve integration. The organizations must not become fragmented and antagonistic, losing sight of Japan’s national interests. We must learn from history, where the Army and Navy prioritized their own organizational logic above all else, clashed, and even within their own ranks, the military command and administration failed to coordinate, preventing the unification of the nation’s will as a state, ultimately leading the entire country into war.
Politics must always consider the interests and welfare of the entire populace and strive for rational judgments based on a long-term perspective. When responsibility is unclear and situations become deadlocked, bold voices and daring solutions tend to gain acceptance, even if the chances of success are low and the risks are high. Admiral Osami Nagano, Chief of the Naval General Staff, likened the decision to go to war to surgery: “While there are considerable concerns, to cure this grave illness, we have no choice but to resolve with great determination to overcome this national crisis.” “If we do not fight,
【Translated with DeepL.com (free version)】
韓国語訳
수상 담화 「전후 80년을 맞이하여」
(내각총리대신 소감)
(서문)
지난 대전의 종결로부터 80년이 지났습니다.
이 80년 동안, 우리 나라는 일관되게 평화 국가로서 걸어왔으며, 세계의 평화와 번영에 힘을 다해 왔습니다. 오늘날 우리 나라의 평화와 번영은 전몰자를 비롯한 여러분의 소중한 생명과 고난의 역사 위에 세워진 것입니다.
저는 3월의 이오지마 방문, 4월의 필리핀 칼리라야의 필리핀 전몰자 비석 방문, 6월의 오키나와 전몰자 추도식 참석 및 히메유리 평화기념자료관 방문, 8월의 히로시마, 나가사키에서의 원폭 사망자·희생자 위령식 참석, 종전 기념일 전국 전몰자 추도식 참석을 통해, 지난 대전쟁의 반성과 교훈을 다시금 깊이 마음에 새기기로 다짐했습니다.
지금까지 전후 50년, 60년, 70년의 고비마다 내각총리대신 담화가 발표되어 왔으며, 역사 인식에 관한 역대 내각의 입장에 대해서는 저도 이를 계승하고 있습니다.
지난 세 차례의 담화에서는 왜 그 전쟁을 피할 수 없었는지에 대해서는 거의 언급되지 않았습니다. 전후 70년 담화에서도 일본은 “외교적, 경제적 막다른 골목을 힘의 행사로 해결하려 시도했습니다. 국내 정치 시스템은 그걸 막을 수 없었습니다”라는 구절이 있지만, 그 이상의 상세한 내용은 논의되지 않았습니다.
국내 정치 시스템은 왜 제동을 걸지 못했는가.
제1차 세계대전을 거쳐 세계가 총력전 시대로 접어든 가운데, 개전 전에 내각이 설치한 ‘총력전 연구소’나 육군성이 설치한 이른바 ‘아키마루 기관’ 등의 예측에 따르면 패전은 필연적이었습니다. 많은 지식인들도 전쟁 수행의 어려움을 느끼고 있었습니다.
정부 및 군부 수뇌부도 이를 인식하면서도, 어떻게 전쟁을 회피한다는 결단을 내리지 못한 채 무모한 전쟁으로 돌진하여 국내외 수많은 무고한 생명을 희생시키는 결과를 초래하게 되었는가. 미나이 미쓰마사 전 총리의 “점점 가난해지는 것을 피하려다 한꺼번에 가난해지지 않도록 주의해 주길 바란다”는 지적도 있었던 가운데, 왜 큰 노선의 재검토를 할 수 없었는가.
전후 80년의 고비에, 국민 여러분과 함께 생각해보고자 합니다.
(대일본제국헌법의 문제점)
먼저 당시 제도상의 문제가 거론됩니다. 전전(戰前) 일본에는 정치와 군사를 적절히 통합하는 구조가 없었습니다.
대일본제국헌법 하에서는 군대를 지휘하는 권한인 통수권은 독립된 것으로 간주되었으며, 정치와 군사 관계에서 항상 정치 즉 문민이 우위에 있어야 한다는 ‘문민통제’ 원칙이 제도상 존재하지 않았습니다.
내각총리대신의 권한도 제한적이었습니다. 제국헌법 하에서는 내각총리대신을 포함한 각 국무대신은 대등한 관계로 간주되었으며, 내각총리대신은 수반으로 인정되었음에도 불구하고 내각을 통솔하기 위한 지휘 명령 권한은 제도상 부여되지 않았습니다.
그럼에도 러일전쟁 시기까지는 원로들이 외교, 군사, 재정을 통합하는 역할을 수행했습니다. 무사로 군사에 종사한 경력을 가진 원로들은 군사를 잘 이해한 상태에서 이를 통제할 수 있었습니다. 마루야마 마사오의 말을 빌리자면, “원로·중신 등 초헌법적 존재의 매개”가 국가 의지의 일원화에서 중요한 역할을 했습니다.
원로들이 점차 세상을 떠나고, 그러한 비공식적 구조가 쇠퇴한 후에는, 다이쇼 민주주의 아래 정당들이 정치와 군사의 통합을 시도했습니다.
제1차 세계대전으로 세계에 큰 변동이 일어나는 가운데, 일본은 국제 조정의 주요 담당자 중 하나가 되었고, 국제 연맹에서는 상임 이사국이 되었습니다. 1920년대 정부의 정책은, 히라하라 외교에 나타난 것처럼, 제국주의적 팽창은 억제되고 있었습니다.
1920년대에는 여론이 군부에 대해 엄격했으며, 정당은 대규모 군축을 주장하고 있었습니다. 군인들은 위축된 심정을 느끼게 되었고, 이에 대한 반발이 쇼와기 군부의 부상 배경 중 하나였다고 여겨집니다.
기존에 통수권은 작전 지휘에 관한 군령으로 한정되었으며, 예산이나 체제 정비에 관한 군정에 대해서는 내각의 일원인 국무대신의 보좌 사항으로 해석·운영되고 있었습니다. 문민 통제의 부재라는 제도적 문제를 원로, 다음으로 정당이 이른바 운영을 통해 커버하고 있었다고 생각합니다.
(정부의 문제)
그러나 점차 통수권의 의미가 확대 해석되어 통수권의 독립이 군의 정책 전반이나 예산에 대한 정부 및 의회의 관여·통제를 배제하기 위한 수단으로 군부에 의해 이용되게 되었습니다.
정당 내각 시대, 정당들 사이에서 정권 획득을 위한 스캔들 폭로전이 벌어지며 정당은 국민의 신뢰를 잃어갔습니다. 1930년에는 야당인 입헌정우회가 입헌민정당 내각을 흔들기 위해 해군 일부와 손잡고, 런던 해군 군축 조약 비준을 둘러싸고 통수권 간범이라고 주장하며 정부를 맹렬히 공격했습니다. 정부는 간신히 런던 해군 군축 조약을 비준하게 되었습니다.
그러나 1935년, 헌법학자이자 귀족원 의원인 미노베 다츠키의 천황기관설에 대해 입헌정우회가 정부 공격의 재료로 이를 비난하며 군부까지 휘말린 정치 문제로 발전했습니다. 당시 오카다 게이스케 내무대신은 학설상의 문제는 “학자에게 맡기는 수밖에 없다”며 본 문제에서 정치적으로 거리를 두려 했으나, 결국 군부의 요구에 굴복하여 기존 통설적 입장이었던 천황기관설을 부정하는 국체명미성명(國體明微聲明)을 두 차례에 걸쳐 발표했고, 미노베의 저작은 발금 처분되었습니다.
이처럼 정부는 군부에 대한 통제를 잃어갑니다.
(의회의 문제)
본래 군에 대한 통제를 수행해야 할 의회도 그 기능을 상실해 갑니다.
그 대표적인 사례가 사이토 다카오(斎藤隆夫) 중의원 의원의 제명 문제였습니다. 사이토 의원은 1940년 2월 2일 중의원 본회의에서 전쟁의 수렁화를 비판하고, 전쟁의 목적에 대해 정부를 엄격히 추궁했습니다. 소위 반군 연설입니다. 육군은 이 연설이 육군을 모욕하는 것이라고 격렬히 반발하며 사이토 의원의 사임을 요구했고, 이에 많은 의원들이 동조하여 찬성 296표, 반대 7표라는 압도적 다수로 사이토 의원은 제명되었습니다. 이는 의회 내에서 의원으로서의 역할을 수행하려 했던 드문 사례였지만, 당시 회의록은 지금도 그 3분의 2가 삭제된 채 남아 있습니다.
의회에 의한 군에 대한 통제 기능으로서 극히 중요한 예산 심의에서도 당시 의회가 군에 대한 견제 기능을 수행했다고는 전혀 말하기 어려운 상황이었습니다. 1937년 이후 임시 군사비 특별회계가 설치되었고, 1942년부터 45년에 걸쳐 군사비의 거의 전부가 특별회계에 계상되었습니다. 그 특별회계 심의에 있어서는 예산서에 내역이 제시되지 않았으며, 중의원·귀족원 모두 기본적으로 비밀회의에서 심의가 진행되었고, 심의 시간도 극히 짧아, 대략 심의라는 이름에 걸맞은 것이 아니었습니다.
전황이 악화되고 재정이 궁핍해지는 와중에도 육군과 해군은 조직의 이익과 체면을 걸고 예산 확보를 두고 치열하게 다퉜습니다.
게다가 다이쇼 후기부터 쇼와 초기에 걸쳐 15년간 현직 총리 3명을 포함한 많은 정치인들이 국수주의자나 청년 장교들에 의해 암살당했다는 사실을 잊어서는 안 됩니다. 암살당한 이들은 모두 국제 협조를 중시하고 정치로 군을 통제하려 했던 정치인들이었습니다.
5·15 사건이나 2·26 사건을 포함한 이러한 사건들이 이후 의회나 정부 관계자를 포함한 문민이 군의 정책이나 예산에 대해 자유롭게 논의하고 행동할 수 있는 환경을 크게 저해한 것은 말할 필요도 없습니다.
(미디어의 문제)
또 하나 경시해서는 안 될 것은 미디어의 문제입니다.
1920년대 미디어는 일본의 대외 팽창에 비판적이었으며, 기자 시절의 이시바시 탄잔은 식민지를 포기해야 한다는 주장을 펼쳤습니다. 그러나 만주사변이 발생한 시점부터 미디어의 논조는 적극적인 전쟁 지지로 바뀌었습니다. 전쟁 보도가 ‘잘 팔렸기’ 때문이었으며, 각 신문사는 발행 부수를 크게 늘렸습니다.
1929년 미국의 대공황을 계기로 유럽과 미국의 경제는 크게 타격을 입었고, 국내 경제 보호를 이유로 고관세 정책을 취했기 때문에 일본의 수출은 큰 타격을 받았습니다.
심각한 불황을 배경으로 하나, 민족주의가 고양되어 독일에서는 나치가, 이탈리아에서는 파시스트당이 대두했습니다. 주요국 중 소련만이 발전하고 있는 것처럼 보였고, 사상계에서도 자유주의, 민주주의, 자본주의의 시대는 끝났으며, 미영의 시대는 끝났다는 논조가 확산되어 전체주의나 국가사회주의를 받아들이는 토양이 형성되어 갔습니다.
이러한 상황에서 관동군 일부가 만주사변을 일으켜 불과 1년 반 만에 일본 본토의 수 배에 달하는 땅을 점령했습니다. 신문은 이를 대대적으로 보도했고, 많은 국민은 이에 현혹되어 민족주의는 더욱 고조되었습니다.
일본 외교에 대해 요시노 사쿠조는 만주사변에서의 군부의 움직임을 비판했고, 키요사와 료는 마쓰오카 요스케에 의한 국제연맹 탈퇴를 엄격히 비판하는 등 일부 날카로운 비판도 있었지만, 이후 1937년 가을경부터 언론 통제의 강화로 정책에 대한 비판은 봉쇄되었고, 전쟁을 적극적으로 지지하는 논조만이 국민에게 전달되게 되었습니다.
(정보 수집·분석의 문제)
당시 정부를 비롯한 우리나라가 국제 정세를 올바르게 인식하고 있었는지도 재검토할 필요가 있습니다. 예를 들어, 독일과 소련을 대상으로 한 군사 동맹을 협상하던 중 1939년 8월 독소 불가침 조약이 체결되자 당시 히라누마 기이치로 내각은 “유럽의 천지는 복잡괴기(複雜怪奇)한 신정세를 낳았다”며 총사퇴합니다. 국제 정세, 군사 정세에 대해 충분한 정보를 수집할 수 있었는지, 얻은 정보를 정확히 분석할 수 있었는지, 적절히 공유할 수 있었는지에 대한 문제가 있었습니다.
(오늘날의 교훈)
전후 일본에서 문민 통제는 제도적으로 정비되었습니다. 일본국 헌법상 내각총리대신 기타 국무대신은 문민이어야 한다고 규정되어 있습니다. 또한 자위대는 자위대법상 내각총리대신의 지휘 아래에 있습니다.
내각총리대신이 내각의 수장이며, 내각은 국회에 대해 연대하여 책임을 진다는 것이 일본국 헌법에 명기되어 내각의 통일성이 제도적으로 보장되었습니다.
더불어 국가안전보장회의가 설치되어 외교와 안보의 종합적 조정이 강화되었습니다. 정보 수집·분석에 관한 정부의 체계도 개선되었습니다. 이러한 것들은 시대에 따라 더욱 진전이 요구됩니다.
정치와 군사를 적절히 통합하는 구조가 없어 통수권의 독립이라는 명목으로 군부가 독주했던 과거의 쓰라린 경험을 바탕으로 제도적 조치가 이루어졌습니다. 한편, 이는 어디까지나 제도일 뿐, 적절히 운용되지 않으면 그 의미를 이루지 못합니다.
정치 측은 자위대를 활용하는 능력과 식견을 충분히 갖추어야 합니다. 현재의 문민 통제 제도를 올바르게 이해하고 적절히 운용해 나가는 끊임없는 노력이 필요합니다. 무책임한 포퓰리즘에 굴복하지 않고, 대세에 휩쓸리지 않는 정치인으로서의 자존심과 책임감을 가져야 합니다.
자위대는 우리나라를 둘러싼 국제 군사 정세와 장비, 부대 운용에 대해 전문가 집단으로서의 입장에서 정치에 대해 적극적으로 설명하고 의견을 제시해야 합니다.
정치에는 조직의 수직적 분할을 극복하고 통합할 책임이 있습니다. 조직이 분열하고 대립하여 일본의 국익을 잃어버리는 일이 있어서는 안 됩니다. 육군과 해군이 서로의 조직 논리를 최우선으로 삼아 대립하고, 각 내부에서조차 군령과 군정이 협력을 결여한 채 국가적 의지를 일원화하지 못한 채 국가 전체가 전쟁으로 치닫게 된 역사를 교훈 삼아야 합니다.
정치는 항상 국민 전체의 이익과 복지를 고려하고, 장기적 시각에 입각한 합리적 판단을 지향해야 합니다. 책임 소재가 명확하지 않고 상황이 막다른 골목에 다다를 경우, 성공 가능성이 낮고 고위험이라 해도 용감한 목소리, 대담한 해결책이 받아들여지기 쉽습니다. 해군의 나가노 오사무 군령부 총장은 개전을 수술에 비유하며, “상당한 걱정은 있지만, 이 큰 병을 고치려면 큰 결심을 가지고 국난을 배제하기로 결심하는 수밖에 없습니다”, “싸우지 않으면
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中国語(簡体字)訳
首相谈话《战后八十周年感言》
(内阁总理大臣感言)
https://www.kantei.go.jp/jp/content/20251010shokan.pdf
(引言)
自第二次世界大战结束至今,已历经八十载春秋。
在这八十载岁月中,我国始终秉持和平立国理念,为世界和平与繁荣倾注心力。今日日本的和平与繁荣,正是奠基于包括战殁者在内的诸位所献出的宝贵生命与艰辛历程之上。
我于三月访问硫磺岛,四月参拜菲律宾卡里拉亚的比岛战没者纪念碑,六月出席冲绳全战没者追悼仪式并参观姬百合和平纪念资料馆,八月赴广岛、 长崎出席原子弹死难者·受害者慰灵仪式、终战纪念日出席全国战没者追悼仪式等活动,我再次立誓将对那场大战的反省与教训铭刻于心。
迄今在战后50年、60年、70年等重要节点,历届内阁总理大臣均发表过谈话。关于历代内阁对历史认知的立场,我亦予以继承。
过去三次谈话中,鲜少触及“为何未能避免那场战争”的核心问题。即便在战后七十周年谈话中,虽提及“日本试图通过武力解决外交与经济困境,国内政治体制未能有效制衡”,但未作更深入探讨。
国内政治体系为何未能有效制衡?
经历第一次世界大战后,世界已步入全面战争时代。根据内阁战前设立的“总力战研究所”及陆军省设立的所谓“秋丸机构”等机构的预测,战败实属必然。众多学者亦深感战争推进之艰难。
政府及军部高层虽深知此理,为何仍无法作出避免战争的决断,反而执意推进这场鲁莽的战争,最终导致国内外无数无辜生命沦为牺牲品?在前首相米内光政提出“谨防为避免渐进式贫困而陷入崩溃式贫困”的警示之际,为何未能对重大方针进行根本性调整?
值此战后八十周年之际,愿与全体国民共同思索。
(大日本帝国宪法的问题点)
首先需指出当时制度层面的缺陷。战前日本缺乏将政治与军事合理整合的机制。
在大日本帝国宪法框架下,统帅权作为军队指挥权被设定为独立存在,制度上并不存在“文官统制”原则——即政治与军事关系中必须始终保持政治(文官)主导地位。
内阁总理大臣的权限同样受到限制。帝国宪法规定内阁总理大臣与各国务大臣地位平等,虽被视为内阁首班,但制度上并未赋予其统领内阁的指挥命令权。
即便如此,直至日俄战争时期,元老们仍承担着整合外交、军事与财政职能的角色。这些拥有武士军事背景的元老们,在深刻理解军事运作的基础上实现了对其有效管控。借用丸山真男的表述,“元老·重臣等超宪法存在的中介机制”在国家意志的统一过程中发挥着关键作用。
随着元老逐渐逝去,这种非正式机制衰落之后,大正民主时期政党开始尝试整合政治与军事。
第一次世界大战引发全球剧变之际,日本成为国际协调的主要推动者之一,并在国际联盟中担任常任理事国。正如1920年代政府政策所体现的,以币原外交为代表的帝国主义扩张受到抑制。
二十年代,舆论对军队态度严苛,政党主张大规模裁军。军人备感压力,这种反噬情绪被视为昭和时期军部崛起的背景因素之一。
传统上,统帅权仅限于作战指挥相关的军令,而涉及预算与体制建设的军政事务,则被解释为内阁成员——国务大臣的辅弼事项。可以说,元老阶层及后来的政党通过制度运作弥补了文官统制缺失的制度缺陷。
(政府问题)
然而统帅权的内涵逐渐被扩大解释,军部开始将其独立性作为排除政府及议会对军队整体政策与预算进行干预和控制的手段。
政党内阁时期,各政党为争夺政权展开丑闻曝光战,导致政党信誉持续崩塌。1930年,在野党立宪政友会为动摇立宪民政党内阁,联合部分海军势力,以批准《伦敦海军条约》构成“干犯统帅权”为由,对政府发起猛烈攻势。政府最终勉强完成了《伦敦海军条约》的批准程序。
然而1935年,立宪政友会将宪法学者兼贵族院议员美浓部达吉提出的“天皇机构论”作为攻击政府的武器加以批判,此事演变为牵涉军部的政治问题。时任内相冈田启介虽试图以“学术问题只能交由学者解决”为由保持政治中立,最终仍屈从军部要求,两次发布否定传统通说“天皇机构论”的《国体明微声明》,并查禁美浓部著作。
由此,政府对军部的控制力逐渐丧失。
(议会问题)
本应制约军部的议会亦丧失了其职能
最典型的例证便是众议员斋藤隆夫的除名事件。1940年2月2日众议院全体会议上,斋藤议员批判战争陷入泥潭,严厉质询政府战争目的。即所谓反军演说。陆军认为该演说侮辱军队,激烈抗议并要求斋藤辞职。多数议员附和此举,最终以296票赞成、7票反对的压倒性多数将斋藤除名。这本是议员在议会中履行职责的罕见案例,但当时的会议记录至今仍有三分之二内容被删除。
即便在议会对军队实施监督的关键环节——预算审议中,当时的议会也完全难以发挥制衡军方的职能。1937年后设立临时军事费特别账户,至1942至45年间,几乎全部军事开支均计入该特别账户。该特别账户的审议过程中,预算书未披露明细,众议院与贵族院均基本以秘密会议形式进行审议,且审议时间极其短暂,根本称不上名副其实的审议。
即便在战况恶化、财政拮据的困境中,陆军与海军仍为维护组织利益与颜面,围绕预算争夺展开激烈角逐。
更不容忽视的是,从大正后期至昭和初期这十五年间,包括三任现任首相在内的众多政治家遭国粹主义者及青年军官暗杀。这些遇害者无一例外都是重视国际协调、试图通过政治手段制约军方的政治家。
诸如五一五事件、二二六事件等系列暗杀,无疑严重阻碍了包括议会及政府官员在内的文职人员自由讨论军事政策与预算的空间。
(媒体问题)
另一不容忽视的症结在于媒体问题。
1920年代,媒体曾对日本对外扩张持批判态度,记者时代的石桥湛山更主张放弃殖民地。然而自满洲事变爆发后,媒体论调便转向积极支持战争——因为战争报道“畅销”,各大报刊发行量大幅攀升。
1929年美国大萧条爆发后,欧美经济遭受重创,各国以保护本国经济为由实施高关税政策,导致日本出口遭受重创。
在严重经济萧条的背景下,民族主义情绪高涨,德国纳粹党、意大利法西斯党相继崛起。在主要国家中唯有苏联看似发展良好,思想界也盛行“自由主义、民主主义、资本主义时代终结”“英美时代落幕”的论调,为接受极权主义和国家社会主义奠定了土壤。
在此背景下,关东军部分势力发动满洲事变,仅用一年半时间便占领了相当于日本本土数倍的领土。报纸对此大肆报道,众多国民深受其迷惑,民族主义情绪进一步高涨。
关于日本外交政策,吉野作造曾批判满洲事变中军部的行动,清泽洌也严厉批评松冈洋右退出国际联盟的决定,此类尖锐批判虽曾存在,但自1937年秋季起,随着言论管制加强,对政策的批判被彻底封锁,唯有积极支持战争的论调得以传至国民耳中。
(情报收集与分析问题)
当时包括政府在内的日本,是否能正确认知国际形势也值得重新审视。例如在与德国谈判针对苏联的军事同盟期间,1939年8月德苏互不侵犯条约签署后,时任平沼驹一郎内阁以“欧洲局势突现复杂诡谲的新局面”为由集体辞职。这凸显出三大问题:是否充分收集了国际局势与军事态势的情报?是否正确分析了获取的情报?是否实现了情报的有效共享?
(对当今的启示)
战后日本虽已建立文官统制制度。日本国宪法规定内阁总理大臣及其他国务大臣必须由文官担任。此外,根据《自卫队法》,自卫队置于内阁总理大臣指挥之下。
日本国宪法明确规定内阁总理大臣为内阁首长,内阁对国会承担连带责任,从而在制度层面确保了内阁的统一性。
此外,国家安全保障会议的设立强化了外交与安全保障的统筹协调,政府情报收集分析体系亦得到完善。这些制度仍需随时代发展持续推进。
基于历史上因缺乏政治军事整合机制,军部以统帅权独立之名擅自行动的惨痛教训,日本建立了相应的制度保障。然而制度终究是制度,若不能妥善运用便失去意义。
政治层面必须具备驾驭自卫队的充分能力与见识。需要持续努力正确理解并妥善运用现行文官统制制度。政治家必须秉持不屈服于无责任的民粹主义、不随波逐流的矜持与责任感。
自卫队作为专业团体,需就我国周边国际军事形势、装备及部队运用等议题,主动向政治领域阐明立场、提出建言。
政治领域肩负着突破组织壁垒、实现整合的责任。绝不能让组织割据对立,致使日本国益沦为牺牲品。必须以历史为鉴——当年陆海军各自以组织逻辑为优先而对立,甚至在各自内部军令部与军政部也缺乏协作,导致国家意志无法统一,最终使整个国家被推向战争深渊。
政治必须始终着眼于全体国民的利益与福祉,秉持长远视野作出理性判断。当责任归属不明、局势陷入僵局时,即便成功概率渺茫且风险极高,勇猛的呼声与大胆的解决方案往往更易被采纳。海军军令部总长永野修身曾将开战比作手术,直言:“虽有相当担忧,但要治愈这场大病,唯有下定决心排除国难”,“若不作战——”
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