「バテレンの世紀」と「潜伏キリシタン」の世界

 今年の初夏は,夜の寝枕に,渡辺京二「バテレンの世紀」を少しずつ読み進めて過ごしておりましたところ,6月30日,「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本両県)が,世界文化遺産に登録されたとの報に接しました。登録遺産群の中で私でも分かるのは,「大浦天主堂」と「原城跡」だけです。大浦天主堂といえば,長崎に行けばまず訪れる観光名所ですし,原城跡といえば,天草四郎の島原の乱の籠城場所ですね。
 ただ,今回ユネスコは,「潜伏キリシタン」に焦点を絞り,島原の乱(1637-8年)の後から始め,230年後,大浦天主堂(1865年)で,信徒が「発見」された後ころまでの土俗信者の宗教遺物に光をあてて,文化遺産と認定しています。
 日本史で,禁教の歴史を見るときには,「島原の乱まで」に光が当たります。徳川家康が命じ,金地院崇伝が起草した「バテレン追放の文」(1613年)によって,キリスト教は「邪宗門」となりました。教会の破壊や,高山右近の国外追放が行われます。1616年に鎖国令が出ると,「下々百姓に至るまで」,信者の捜索・逮捕,さらには拷問による強制改宗へと禁教レベルが引き上げられました。島原の乱以降ともなると,改宗するまでは拷問される徹底したキリシタン暗黒の時代だったはずです。
 ユネスコは,それでも信仰を守り続けた天草などに根付く凄まじい精神文化を世界遺産と認定したことになります。
 ここで喚起されるのは,今年2月に90歳で亡くなられた石牟礼道子さんが能の新作として書き上げた「沖宮(おきのみや)」の舞台が,ちょうど島原の乱が終わった後の天草(熊本県)であることです(今年10月6日に,熊本の能楽堂で追悼公演の形式で演じられます)。
 私は,姫路の人間なので,黒田官兵衛孝高(よしたか)と,高山右近の物語にどうしても惹かれてしまいます。高山右近の場合には父飛騨守が日本人修道士ロレンソに惚れて入信したのを受けて,10歳の時に洗礼を受けたそうです。本能寺の変(1582年)の後,秀吉の幕下に入った右近は,軍師官兵衛と出会います。官兵衛は,播磨の地で室津・小豆島の小西行長に影響され,明石城の高山右近に勧められて,1585年頃に洗礼を受けます。ところが,秀吉は1587年にバテレン追放令を出します。「バテレン信仰は自由だ。しかし大名がバテレンでよいかは,公儀の意思次第だ」として,右近は棄教を求められます。ところが,右近は,あっさり,領地と財産をすべて捨てて信仰を守る方を選びました。世の中はあっと驚きました。
 官兵衛は,秀吉の追放令の年に大友宗麟の息子義統を入信させました。その後も,1590年の小田原攻めで在陣していた際,天正遣欧少年使節派遣を実施したヴァリニャーノのために秀吉との面会の取りなしを行おうとし,秀吉の不興を買いました。1604年の死亡時も死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶよう遺言しています。
 大航海時代の武装商人と宣教師の行為は,客観的には異教徒に対する軍事的・経済的・文化的侵略の文脈を払拭できません。しかし,戦国を生きる武将や農民に現世的主従関係や損得関係を超越して深い共感を生み出させた,説法者の,人となりや振る舞いとはどれほどのものか。
 この夏は,宗教と民俗と救済のことを考えながら,「バテレンの世紀」をじっくり味わいたいと思います。

>2018年7月31日 市民法律だより2018年7月号より転載

>2018年12月30日 3文字追加挿入