決められた法律の執行のみを強化し法の支配する市民社会の形成過程を顧慮しない弁護士激増路線
久々に法曹人口・法曹養成問題です。忘れないうちに書いておきます。
法曹人口激増路線を推進する論者に対してのお話しです。
「法曹人口激増路線推進」論者というのは,現在,具体的には「司法試験合格者数は1500人程度は最低限確保するべきだ」と主張する,「法科大学院中核路線」を支持する論者の立場-平成27年6月30日法曹養成制度改革推進会議決定を支持する立場-の論者として登場します。
この論者は,「法曹人口を供給過剰の状態で放置することによっても,法律を通じた国民の福利向上の成果が上がる」という風に言います。
私も,そういう面がないと言い切るつもりはありません。
しかし,それは,法律や確立された判例ルール,確立された裁判所・行政等の運用がはっきりした分野について,その法律・判例のルールの法執行の場面でのみの世界です。
これに対して,企業や市民から持ち込まれる問題が,その点については法律がなく,法律があっても判例が確立しておらず,むしろ諸説があり得る世界,行政や司法に制度運用が任せられている領域のうち,運用ルールがはっきりしていない世界については,これを問題に応じて考え抜き,なにが人権擁護と社会正義のものさし,あるいは六法各分野の法律実務に根ざす常識のものさしに照らして適切・妥当な方向であるかというバランス感覚を研ぎ澄ました上で,依頼人の訴える案件についてどのような助言をし,場合によって専門家としての立場から依頼人やそれを支える人々と「ともに手をたずさえ」,「ともにたたかう」か,という,それ自体,弁護士としてはかなりしばしばでくわす問題に関しては,これは,法曹人口を供給過剰の状態で放置して,こういう問題に格闘できる法曹が増える結果にはなるという保障は全くないばかりか,むしろその逆の結果が生み出されるものだ,といえます。
要するに,一つ一つの処理自体にはある程度安定したルールがある部門,だれかがきちんと「そのレベルの人」でも分かるルールを作ってくれていて,そのルールに照らして事務を処理すればよいという,簡単な分野については,人が増えれば,担い手が増える。その領域では,自由競争をさせれば,ある程度までは価格競争で値段も下げることが出来るかもしれない(それでも事務所を支える経費はかかりますから,価格の下落には限界がありますけれど)。確立した実務ルールに従った法的サービスの提供それ自体は,通常は個人にとっても社会にとっても是とされることですので,それについて,自由競争でサービス価格がある程度下がることは,利用する企業・市民にとって福利であり,是とされることです。(歓呼の声で応えるというようなものではないですが,フツーのことです。)
しかし,在野法曹たる弁護士のうち良質な人たちというのは,基本的に,こういう実務ルール確立分野の企業・市民の法的ニーズにルーティンワークで適切・迅速に応えることで,事務所経営を維持しながら,他方で,法的道筋が必ずしも立っていない分野で依頼者と「ともにたたかう」形で,あるいはその他の方々と「手をたずさえる」形で,道筋のはっきりしない問題のある過程をともに歩み,案件の解決を模索していく作業や時間を,弁護士の生き甲斐として大事にしています。
一流の弁護士というのは,こういう良質な弁護士の中からのみ生まれるのです。
では,法曹人口激増路線を取れば,こうした良質な弁護士の数が増えるかというと,それは逆です。減ります。
ということは一流の弁護士を生み出す裾野も小さくなります。どうしてか。
良質な弁護士というのは,非良質な弁護士と比べて,ルーティンワークの法分野で適切・迅速に事案を処理する能力にも,通常長けています。そこで,その能力を生かして,事務所を維持するために必要な業務を効率よく行うことでそれ以外の創造的業務に取り組める時間を創設し,地図のない分野・たたかいが必要な分野にも取り組むのです。
ところが,弁護士人口過剰の状態を続けて,ある程度以上の過剰状態(飽和状態+α)にすると,今度は,ルーティンワークそのものが過当競争にさらされる結果,顧客数が低下したり,価格がぎりぎりまで低下したりするようになってきます。そうなりますと,良質な弁護士も,これまで創造的業務に取り組めていた時間を,さらにルーティンワークのためにさいて,事務所を維持するか,経費を抑えるため事務所の規模を縮小しなければならなくなります。このため,良質な弁護士の創造的・模索的活動にさくことのできる時間は減り,良質な弁護士の事務所の規模の相対的縮小という事態が発生します。ということはこの分野での弁護士への期待に応えることのできるマンパワーは減少するということになるのです。
憲法は弁護士に,在野法曹として司法を支えることを期待しています。
そして弁護士法は弁護士に人権と社会正義を担う専門家市民(司法にかかる公益-つまりは人権と社会正義にかかる種々の活動-の無償の担い手)としての役割を期待しています。
これは,弁護士に「良質な」弁護士になることを期待し,あるいはそれを前提として立憲主義の政体がなりたっていることを表しています。
ですから,この期待に応えられない,その期待に対してマイナスの効果が出るような法曹人口政策は,反憲法的で法の支配に反対する方向性をもつ政策,それを志向している政策だという風に性質決定するほかないのです。
良質な弁護士が,本来取り組もうとする分野に取り組めずに呻吟する間,非良質な弁護士も,良質な弁護士とのルーティンワーク分野での競争に事実上さらに過当にさらされていくことになります。その場合,非良質な弁護士の経営も,さらに苦しくなります。そこで,そのような人としては,弁護士業そのものからの転身を検討したり,弁護士という資格を生かせる新たな業態を模索するようになります。
ここで「業態模索」というレベルのことを考えますと,非良質な弁護士の目線は,「ニュービジネス」を夢見る(漁る)営利事業者の目線ということになります。
そこのところの「能力」がハイパーなものになるよう促進するのが「金儲け自由主義」の役割であり,ルールなき資本主義の本質であるわけですが,そのような漁り弁護士の登場を企業や市民が望んで待っているとは,到底思えません。
漁り弁護士を待ち受けているのは営利活動万歳の精神を持ち,弁護士資格をもった人とともにどういったニュービジネスが可能かを思案することに熱心なあの人々,この人々です。
それはその弁護士が法曹を目指した誇りや価値そのものを失わせる出発点となるかもしれません。
このような意味で,弁護士人口激増路線は,憲法や法の支配の目指す理想や価値とは本質的に敵対し,営利活動万歳の精神,金儲け自由主義の目指す欲望には,適合的なものであると思う次第です。
いつも同じことを述べているようにも思いますが,何かプラスαの考えが含まれていれば幸いです。
<2015年10月1日平田元秀wrote>