「競争と管理は教育の自殺」(毎日新聞2012年3月26日夕刊-高橋哲也東大教授)

 次のタイトル,「教育」を「司法」「法曹界」に置き換えて観察すると,そのまま現代の法哲学に視座や洞察を与えてくれるように思いました。
 私が考えるときのヒントとして,アップします。
 以下引用です。


「競争と管理は教育の自殺」 毎日新聞2012年3月27日夕刊
-今平和を語る- 哲学者 東大大学院教授 高橋 哲也さん
(たかはし・てつや)1956年、福島県生まれ。78年に東京大教養学部を卒業後、大学院などを経て、87年に東大教養学部助教授に就任。現在は大学院総合文化研究科教授。ベストセラー「靖国問題」(ちくま新書)など著書多数。近著に「犠牲のシステム福島・沖縄」(集英社新書)「いのちと責任対談高史明・高橋哲哉」(大月書店)がある。

 戦前の教育は国家主義の柱をなした。戦後の教育はその反省からスタートした。しかし国旗・国歌法の制定、教育基本法の改定など近年の政府は教育への管理を強めている。東京、大阪をはじめ地方公共団体でも顕著になってきた。教育現場に何が起きているのか,この国に何が起きようとしているのか。哲学者での高橋哲哉さん(55)に聞いた。
 
 -橋下徹大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」が原案を作成した大阪府と大阪市のいわゆる教育基本条例案(府は可決)は、教職員の処分を厳格化しています。
(高橋)
 教育の管理を強める動きは、歴史的には国旗・国歌の強制にみられるように、かなり前から起きています。現在の状況は、東京、大阪という東西の中心地で、それも首長が先頭にたって、こうした流れを強く推し進めているといえます。
 大阪の条例案は、教師の処分に関する内容が微に入り細をうがっています。だが、子どもに関する記述がほとんどありません。子どもたちは今、どうなっているのか,教育を考えるためにはそこから始めるべきだと思います。統計的には引きこもりや不登校が相変わらず多く、その根本原因は解明されていません。条例案には、そうした問題を考えようとする姿勢が見られず、教職員の管理を強めれば教育がよくなるという幻想に囚われているように見えます。
 -大阪市の条例案は「教育理念」として〈他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること〉など6項目をあげました。
(高橋)
 いずれも「人材」の言葉を使っています。この言い方に潜んでいるのは、国や社会が設計した人間に仕立てあげようという意図です。前文では、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとは言い難いと大阪市の教育の現状を示したうえで、時宜にかなった教育内容を実現しないと国際競争から取り残されるのは自明だと強調しています。しかし、やみくもに競争を煽りたてるのでは、ますます人格空疎で、勝ち負け以外の価値を知らず、世界に通用しない人間ができあがってしまうでしょう。
 -学校を息苦しくしているのは競争と管理だと指摘し、共著「とめよう!戦争への教育」(学習の友社)で書かれました。
 
 <競争は新自由主義という思想に基づくものですし、管理は新国家主義といえると思います。競争と管理は、いまの権力者たち、為政者たちが「国家戦略」として採用している思想-新自由主義と新国家主義-を教育現場に持ち込んだものです>
(高橋)
 1990年代のグローバル化の流れに呼応し、とにかく競争に勝たねばならないという価値観を教育現場に押しつけました。弱い者が淘汰されていくのは敗者の自己責任で、全体が発展するためにはやむを得ないという論理です。同時に、多少なりとも自由が認められていた教育現場の管理が強められました。服務規律の徹底、愛国心や忠誠心を教える新国家主義が、弱肉強食を正当化する新自由主義とセットになっているのです。2006年の教育基本法の改定もこの流れでした。
 
-いわゆる「日の丸・君が代」を強制している自治体では、教育委員会が出す職務命令を校長が教職員に徹底します。著書「教育と国家」(講談社現代新書)で苦言を呈されました。<上命下服のシステムは全体主義国家の特徴そのものですから、こうしたシステムのもとで教育された子どもたちは、自分の頭で考え、自分の理性でものごとを判断することができなくなってしまう。「お上」の命令であれいかんばその内容如何にかかわらずそれに従うような教育の場で、自分の頭で考え、自分の理性でものごとを判断できる子どもたちが育つとは思えません>
(高橋)
 さらに言えば、こうした教育環境では、自由な精神をもつ人は教師になりたがらなくなってしまいます。学校教育自体が小さくなると、子どもたちからクリエーティブな力は生まれてきません。これは少し強く言うなら、教育の自殺行為だと思います。
 -あるべき教育とは。
(高橋)
 本来の教育は、基礎的な学力を身につけると同時に、困難があっても絶望せずに生きていけるだけの自己肯定感を養うことにあると思います。仮に失敗しても、挫折しても、それでも自信を失うことなく、新たなチャレンジに向かっていける、そういう人格のべースを養うこと。そのためには教師ともパーソナルな交流が必要でしょうし、人間的な信頼関係をはぐくむような教育現場が何より求められます。競争と管理がまかり通る教育現場では、そうした人格をつくることは不可能です。
 -かつては戦争に駆り立てるための「国民精神」を形成する装置として教育が使われた面があります。
(高橋)
 戦時中の「一億玉砕」という国家命令に従うような「精神」ではなく、グローバル化に伴う大競争のなかで、日本が勝ち残っていくために必要かつ十分なだけの「精神」だと思います。この種の「精神」をつくるためには労働運動や市民運動をマイナー化し、社会的な異分子をあぶりだす管理と監視のシステムを強化することが重要だと、為政者は考えるはずです。教育の効用を知っているのです。
 -為政者はいつの時代にあっても、〈国家批判や社会批判を「不遜な言動」として「自ら慎む」ような従順な国民〉「『心』と戦争」(晶文社)をつくりたいのでしょうか。この先々に見えるものは。
(高橋)
 新自由主義と新国家主義の価値観をもつ政治家は、教育基本法を変えたことで、個人の育成から国家の方針に沿う国民をつくろうとしています。仮にですが-自民党の改憲原案にあるように、憲法9条を変えて日本軍が米軍と一体化して武力行使を行うことが可能になれば、それこそ国のための自己犠牲を国民に要求してきます。そのための「精神教育」を押しつけ、表現の自由を含めてあらゆる分野の自由を圧迫する動きが強まるでしょうね。
 そういう「精神教育」であってはならないと、戦後は戦前と違う教育理念を掲げて出発しました。しかし大きく後退しているのが実情です。教育は社会を存立させる最も重要な役割を果たすのですから、教育現場で起きている問題を見据えていかねばならないと思います。(専門編集委員)