「日本」という国号について

 今年8月に韓国国立中央博物館を訪問したことは,ブログ「(日弁連韓国調査の応援記 ( 弁護士の小話 ) 2010/08/30」でも書きました。その後,ずっと興味を持っていることがあります。そのことを少しずつ書きためていこうと思っています。


■ 「日本」という国号について

 内田樹さんの「日本辺境論」がいう「世界標準に準拠してふるまうことはできるが,世界標準を新たに設定することはできない」という「辺境〔と自意識する日本〕の限界」がここでの問題意識の一つです。
 でも,もう一つの問題意識は,三韓時代の朝鮮半島と,弥生時代から大和朝廷を経て奈良時代に至る列島(日本)との関係です。

 ★ 「日本」=「日ノ本」=中国から見た位置で付けた国号

  •  隋書倭国伝
    「大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。…その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
     → 607年,日本の使者の国書が自国を「日出ずる処」と表現
  •  日本書紀(720年・奈良時代初期に完成)

  ○ 巻第一 第四段 本文

 産(こうむ)時に至るに及びて、先ず淡路洲(あはぢのしま)を以ちて胞(え)と爲す。 意(みこころ)に快(よろこ)ばざる所なり。 故(かれ)、名づけて淡路洲(あはぢのしま)と曰う。 廼(すなわ)ち大日本豐秋津洲(おおやまととよあきつしま)を生む。【『日本』、此を耶(や)麻(ま)騰(と)と云う。下、皆此(これ)に傚(なら)え】
 → 朝廷は720年までに 国号を「日本」と決める。
 → 同時に「日本」を「やまと」とも訓読みさせることに決める。

  •  「やまと」国=「大和」国=「大倭」国 
      これは書くまでもない。
  •  「やまと」国=「邪馬台」継承国家

  ○ 隋書倭人伝

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。…
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。…
 桓帝と霊帝の間(146-189年)、その国は大いに乱れ、順番に相手を攻伐し、何年もの間、国主がいなかった。卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は(卑彌呼を)王に共立した。
→ 奈良朝廷は,倭国大乱後倭国をまとめたという邪馬台(やまと)という国を引き継いだ,あるいは少なくとも「引き継いだことにした」。(前漢と後漢の関係のように,簒奪ではなく,正当な王朝を引き継いだという正統性の物語が国際的にも国内的にも重要だった。)

  少なくともここまでは,安定して書けるところだろうと思われる。
  すなわち,奈良(平城京)朝廷は,昔「倭」を大きく統一・統合したことになっている「邪馬台国」の王朝を後継する王朝として自らの国を「やまと」といい,国際的には,中国の東の中国と対等な国として国号を「日本」と号したのである,と。*


* ウィキペディア「邪馬台国」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD

  • 「邪馬台国に関する論争」欄

     日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志倭人伝」から引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。‥
     史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。
     古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石は「古史通或問」において奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。


    <2020年10月4日平田元秀Edit>