百済と新羅とヤマト王権

 2010年8月末,韓国国立中央博物館で三韓の遺跡を見た後,ずっと興味を持っていることがある。
 「日本という国号について」のブログは,とても安定して書けるものであった。
今回は,その続きである。


 百済(くだら)と新羅(しらぎ)。
 この読み方と,日本の王朝との関係である。
 この読み方だけは,どうしても,日本のこう読ませた王朝とこれらの国々との関係を決定的に定義づけざるを得ない。日本人はこの事実から逃げることはできないと思われる。

 百済は日本語で音読みすると,ヒャクサイであり,韓国語で読むと,ペクチェである。
 しかし,日本では百済を「クダラ」と読む。
 新羅は日本語で音読みすると,シンラであり,韓国語で読むと,Shilla(シルラ)である。
 しかし,日本では新羅を「シラギ」と読む。
 「クダラ」は韓国人が聞くと「クンナラ」=「偉大な国」と聞こえ,
 「シラギ」は韓国人が聞くと「シーラギ」=「新羅の奴」と聞こえるという風に言う学者が日本にも韓国にもいる。
 韓国語に関する常識でいっても「クンナラ」と来れば,「クン」は「クンキワチプ」の「クン」。「大きい瓦の家」という意味の貴族階級の両班(ヤンバン)たちの家を指す「クンキワチプ」の「クン」は大きいという意味。「ナラ」は,ハンナラ党の「ナラ」で,ハンナラ党は「韓国党」のことだから,ナラは「国」という意味。
 「クンナラ」が使い倒して「クダラ」となったのなら,「クダラ」は「大きい国」という意味になる。
 2チャンネルなどでは,こうした見方を無視すべきだとする叫び声が目立つが,根拠らしい根拠はない。
 そこで,素直に考えると,百済を「ヒャクサイ」「ペクチェ」ではなく「クダラ」と読むのは,百済を大国・貴い国と考えていた人たちだと思うし,新羅を「シーラ」「シンラ」ではなく「シラギ」と読むのは,新羅を,憎たらしい奴と考えていた人たちだと思う。

 こう読ませるという,訓読みの指示を,日本書紀も古事記も与えてはいない。
 しかし,百済が660年に滅亡していること,百済復興のための倭国と百済遺民の連合軍による白村江の戦いが663年に行われていることからすると,滅亡してからわざわざクンナラ(大国)と呼ぶことにしても国内的に全く意味がないので,百済をクンナラ・クダラと呼ぶという伝承は,660年以前からのものであるといえる。
 そうすると,日本の当時の王権が,百済という国(346年-660年),新羅という国(356年-935年)を自分たちとの関係で,どう考えていたかがかなり明瞭になってくる。
 普通に考えれば,百済は,自分たちにとっての大国・貴い国であると考えていたのだろう。
 新羅は,よく知っている近い存在であるが,嫌な奴と考えていたのだろう。
 もっとも,日本書紀は,百済を奈良王朝にとっての大国・貴い国であると考えていたというそぶりはみじんも示していない。新羅を,敵じゃないが,少し嫌な国だと見ていたことは,明らかであるが。

(第十九巻 第十話 欽明紀 「夏六月、詔曰『新羅、西羌小醜、逆天無狀、違我恩義、破我官家、毒害我黎民、誅殘我郡縣。』」
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_19.html
「夏6月、詔して曰く、『新羅は西えびすの小さく醜い国である。天に逆らい無状で、わが恩義を違え、官家を破った。わが人民を毒害し、郡県を損なった。』」
などとある。

 百済に対しては,「大国」ではなく,むしろ「当王朝が,恩義を施してきた」国として扱っている。
 しかし,そのように本当に考えていたのなら,どうして百済を,「ヒャクサイ」「ハクサイ」などと呼ばせなかったのか。あるいは,現在もなお「クンナラ」をイメージするほかない「クダラ」という読ませ方をしているのか。そこにどうしても疑問が残る。*1,*2
 そして,その先には,やはり,三韓時代に(朝鮮)半島で政権を執っていった人達(クニグニ)と,同時代に(日本)列島で政権を執っていった人達(クニグニ)との関係如何,という問題がでてくるのである。*3,*4


*1 国立国会図書館レファレンス協同データベース
   https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000086969

事例作成日
(Creation date)
2010/10/01 登録日時
(Registration date)
2011年06月01日 02時07分 更新日時
(Last update)
2020年03月28日 00時30分
質問
(Question)
「百済」という言葉は韓国語では「ペクチェ」と発音するそうだが、なぜ日本では「くだら」と読むようになったのか。その由来を知りたい。
回答
(Answer)
『日本国語大辞典;第4巻』の「くだら(百済)」の項を見ると、その語誌について、「「百済」をクダラと訓む由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説が最も合理的か。」と説明されている。さらに、語源説としては「クは大の意。タラは村落の義」とも説明されており、語誌、語源説共にその他の説に付いても記載がされている。また、『朝鮮を知る事典』では、「くだら(百済)Paekche」の項に、「(ひゃくさい)と音読するのが一般的であるが、日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して(くだら)と呼びならわしている。」と解説されている。

 

*2「天皇明仁の発言」
  百済王室と王室との血縁関係については,天皇明仁が2001年12月18日に行った「おことば」の中の次の発言が注目された。 

「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、『続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。

(典拠)ウィキペディア「桓武天皇」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
 の中の「天皇明仁の発言」欄。

  •  これらについて水野俊平は、自著の中で朝鮮半島からの渡来人による古代日本における影響の大きさを認めつつも、彼等の日本社会への同化の程度も大きく(桓武天皇の生母の高野新笠は百済系渡来人の武寧王から10代目であり、しかも6代前に日本名(和氏)にして帰化もしている)、果たして彼等をして「韓国人」と見てもよいかどうか、またそもそも和氏が武寧王の子孫であるかどうかも学術的に少なからず疑義を持たれていることを指摘している。
  •  桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という記述が続日本紀にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。

*3 歴史人編集部「謎の4世紀」に行われたヤマト王権の朝鮮進出 記事2022.05.18 も参考になる。

2020年10月4日平田元秀Edit・update
(「百済を本国・祖国と考えていた人たち」との記述を「百済を大国・貴い国と考えていた人たち」との記述に改めた。)

*4 「牛頭天王と蘇民将来伝説の真相」(長井博著 (株)文芸社 2011年7月15日初版発行)も参考になる。(2024年6月9日update)