憎しみへの「共感」超えるのに必要なのは
タイトルは 毎日新聞2022年10月8日の「今週の本棚」の 伊藤亜紗教授の書評〔対象書:「死刑について」(平野啓一郎著・岩波書店)〕からのものである。
土曜の「今週の本棚」は,毎週の楽しみである。
が,今回の書評には,実務家として生きる私にとって,特に,ツボどころを捉えた言葉,留めてきっと覚えておきたい言葉,考える留め具となる言葉が,ここにはあるので,blogとして残し,深めるヒントとしたい。
- 「遺族の身になったら死をもってつぐなってほしいと思うのは当然だ」。こうした被害者への強い共感にもとづいて,日本において死刑は妥当と考えられてきた。
- しかし社会制度の設計を感情に委ねてしまうことには危険がある。共感できない相手に対しては,差別も暴力も,何の歯止めもなくなってしまうからだ。
- 「死刑を科せられなければならない人がやったことは異常ですよ。人間の業ではないですよ」。「そんなことをする人は人間ではない」のだから「この世から排除すべきだ」それは別の見方をすれば,個人の生よりも全体の利益を優先する全体主義の発想だともいえる。この場合の「社会」とは,それを主張する人が恣意的に線引きした「全体」であり,自分と同じような苦労や喜びを共有していない人,つまり共感できない人はそこから排除されている。
- 加えて,大人を奪われた被害者への共感に関しても,その実態はこちらの思い込みであることも多い。もちろん,つらい経験をした人に寄り添うことは重要だ。しかし,被害者がみな同じように「死をもってつぐなってほしい」と思っているとは限らない。思いは多様であるにもかかわらず,死刑を望んでいないというと,「愛する人が殺されたのに,死刑を望まないなんておかしい」という心ない言葉が投げかけられる。必要なのは,感情の機微を塗り込めるような共感によって相手を口ごもらせてしまうことではなく,「私たちの社会は傷ついた人を受け入れていく用意がある」というメッセージを発していくことだろう。現状の日本では,被害者を金銭的精神的に支えていく具体的なケアの仕組みが極めて脆弱である。
- 共感は大切だが,限界もある。だから歯止めとして人権が必要なのだ,と著者は言う。共感できないものの,共感がみえなくしてしまうもののためにこそ,誰にも侵すことのできないものとしての人権が意味を持つ。それは,憎しみで連帯する社会ではなく,優しさと知恵によって困難を乗り越える社会を目指すということである。
- 死刑について考えることは,加害者と被害者という究極の分断について考えることに他ならない。もちろん,被害者が加害者をゆるすことができないという思いを持つのは当然のことだ。その上で,社会として,ゆるすことのできない他者とどうやったら共に生きることができるかを考えることは,私たちの喫緊の課題であると思う。他国の事例も参考になるだろう。例えば1994年に民族の対立が激化し大虐殺を経験したルワンダでは,現在,加害者が被害者の家を再建するなどの行為を通じて和解を促す取り組みが進められている。*こうした先例から知恵を得ながら分断を癒やしていくことが,日本が全体主義に逆戻りしないために,非常に重要である。死刑制度が,そのための最も難易度の高い事例の一つであることを,本書は教えてくれる。
* ルワンダ「家造りプロジェクト」